創業の雑誌 電子版

株式会社ヒューマンエナジー

The History of Human EnergyThe Energy

Interview

〜未来へ今語る、ヒューマンエナジーの軌跡〜

2023年4⽉17⽇。
雑誌「ヒューマンエナジー」TheHistoryofHumanEnergy発⾏のため、創業者である加藤奈穂子氏に取材を⾏った。

小学生のころに入ったガールスカウトで⼤きな影響を受けたという加藤氏。中学生になってから始めたバスケットでは、オリンピックを⽬指していたという。就職した後、結婚退職するも、ひょんなことから専門学校の講師となり、ヒューマンエナジーを起業。

常に顧客のことを考えてきた加藤氏の今までとこれからに迫る。

PROFILE●加藤菜穂子

誕生日:1962年1月6日
学歴:早稲田大学人間科学部 大学院修士
趣味:マラソン yoga 読書 コンテンツづくり
座右の銘:人事を尽くして天命を待つ

幼少期と家族のこと

 昭和37年1月6日に富山県南砺市福光町で生まれました。父も母も地元出身です。父の両親は早くに亡くなったそうですが、母の両親はお魚屋さんを営んでいました。祖父母にはかわいがってもらいましたね。私は母方の初孫だったんです。2、3歳のときに、おじいちゃんが1人で私を東京まで遊びに連れていってくれたこともありました。当時は新幹線もないからすごく時間がかかったと思うんですけどね。

 父は、農協職員で真面目な人でした。いつも金融の勉強をしていた記憶があります。3つ下に弟が生まれたからだと思うんですけど、私は母よりも父といる方が多かったです。優しい父でしたが、一度だけ、すごく怒られた覚えがあります。中学校2年生のときに、クラスメートと地元のキャンプ場でキャンプをすることになったんです。みんなは行くっていうのに私だけは行かせてもらえないので、文句を言ったらすごく怒られました。「男の子もいるのに、一緒にテントに泊まるっていうのがどういうことなのか、ちゃんと考えなさい」と言われましたね。私はキャンプには慣れていたんです。ガールスカウトに入っていましたから。ガールスカウトはリーダーも全員女の子だから、キャンプで危ないことが起きてはいけないということで、参加者の父親が交代で寝ずの番をしていたんです。もしかしたら父は、そういうこともあって怒ったのかもしれないですね。

 

 母は、裁縫が上手で、私が中学校に入るまで服はほとんど母が作ったものだったんですよ。母はよく、父が着ていたお洋服を壊して私の服を作ってくれました。当時は布も高かったんだと思います。母はお嫁に行く前に、東京に花嫁修業に行ったんですよ。祖母のお姉さんが小金井市に住んでいて、そこで1、2年修行したそうです。そのときにお茶とお華を習っていたこともあって、私が小学校1年生のときに自宅でお茶とお華のお教室を始めたんです。お茶とお華は、教えながら自分も外に習いに行ってました。そのお稽古には、私もよくついていってました。その日はデパートの食堂でご飯を食べさせてもらえるんですよ。それが楽しみだったんです。

 

 私は母のお手伝いをするのが好きでした。ただ手を抜くと怒られるんです。「やるんだったらちゃんとやりなさい」「中途半端にするなら、やる意味がない」「奇麗に作らないと意味がない」などと言ってましたね。

 

 きょうだいは、弟が1人います。小さいころは、弟の面倒を見るというより、弟が私のあとによくついてきていました。私がガールスカウトに入ると弟もボーイスカウトに入ったり、同じ習い事をしてました。

ガールスカウトから得たこと

 小学校2年生のときにガールスカウトに入りました。きっかけは、幼稚園のお友達のゆみちゃんです。すごく仲が良くてね。その中でも、私はゆみちゃんが大好きで、ゆみちゃんがガールスカウトに入るというので一緒に入りました。

 そんな動機で始めましたが、ガールスカウトは高校を卒業するまで続けました。ガールスカウトは私という人間を形成してくれましたね。「自己開発」「人との交わり」「自然とともに」という活動方針のもとに、いろいろなことをやるんですよ。地域の方はもちろん、日本全国のガールスカウトと交わることもありました。ガールスカウトのリーダーさんが、うちにお茶を習いにきてくださっていたことも、私に影響を与えていると思います。ガールスカウトをやってもお金になるわけではありません。でも、その人がリーダーをやっているのを見て、人のために何かをやるために、人って生きているんだな、と小さいうちから感じていました。こんな人になりたいなと思いましたね。

 ガールスカウトでは、中学生になると小学生を見るし、高校生になると中学生を見るんです。でも、部活の中であるような上下関係ではなくて、もっと対等なんです。ガールスカウトには上下関係が必要ないと思ってました。私は部活ではずっとバスケをやってたんですが、そこでは勝つことがゴールだったんです。でもガールスカウトでは、交わることがゴールでした。人と人の交わり、人と自然の交わりですね。そこに上下関係が入ってくると、うまく交われないと思ってました。部活はつらくてやめていく子がいるのも仕方ないと思ってましたが、ガールスカウトはやめさせたら駄目だとも思ってましたね。

小学校〜高校時代

 小学生のころは、先生に「なんで授業は全部体育じゃないんですか?」って聞いたくらい運動が好きでしたね。

 昭和52年に福光中学校に入りました。部活ではバスケ部に入部して、夢中になりましたね。中学、高校はバスケットをしてるか勉強してるかのどちらかでした。本は読んでいましたが、経済に関する本などが多かったです。なんで自民党と農協がつながってるのか、なんで東北新幹線の工事があんなに早く着工したのか、などを知ることが好きでした。あとはバングラデシュがどんな国か調べたりもしましたよ。ガールスカウトがバングラディシュに募金をしていたので、気になったんだと思います。 

私が住んでいた地域では、ほぼみんな同じ学校に行くんです。福光小学校、福光中学校の次は、福光高校ですね。私も含めてほとんどの人が福光高校を目指しました。私は算数が好きでしたね。でも歴史は嫌いでした。勝海舟や坂本龍馬が出てくるあたりからは好きになりましたけど、それ以前の歴史に興味が持てないんです。大人になってからは、仕事に役立つようなネタがある歴史には興味を持つようになりましたが、基本的に、過去にはそんなに興味はないんだと思います。

 バスケ部では、チームを強くしたいと思ってました。強くなるという経験をみんなですれば、しんどいけれどプラスになる、という気持ちがあったんだと思います。強くなれば大きな大会にも行けますしね。中学校も高校も部長みたいな立場でした。それは、リーダーシップがあったからではなくて、うまかったからだと思います。バスケというのは、チームプレーだけでは強くならないんです。体操の団体戦と同じだと思います。一緒にやってるけど、一人一人のうまさがチームの強さになる。どんなにチームプレーが素晴らしくても、個人が下手ならチームが強くなることはない。全員足が速くて、高く飛べて、ボールハンドリングがよくて、パスができて、シュートが打てれば強いチームになります。

 バスケ部の先輩たちは、私が怖かったと言ってましたね。私がいつも目標感を持っていたからだと思います。中学生でバスケを真剣にやり出してからは、自分の人生プランも作ったんですよ。憧れの選手を見つけて、その選手と同じ経歴をたどりたいと思いましたし、オリンピックを目指しました。オリンピック選手になりたい、ということは親にも話してました。うちの親は、得意なことをやりなさい、と言ってくれていたんです。得意なことは好きなことだから、もっとやりたくなる。それを続けると、飛び抜けてうまくなる。そういうプラスのサイクルを回していくことを推奨している親でした。

市邨学園短期大学

 私は運が良くて、短大にはスポーツ推薦で入れたんです。推薦の話を持ってきてくれたのは、市邨学園のテニス部の監督です。うちの高校は、軟式テニス部が強くて、市邨のテニス部の監督がスカウトに来てたんです。その監督が、私を見て「あの子は筋がいい」と思ったらしくて。それで、バスケ部に私の推薦の話が来たそうです。市邨学園は私の憧れの選手がいた大学だったので、とてもうれしかったです。情報のない時代なので、どうすれば市邨学園に入れるのかもわからなかったのが、お声がかかったんですよ。 

 入学してからは、寮生活でした。短大では勉強は二の次で、寝ても覚めてもバスケでした。授業を受けるときのルールとして、「ジャージで行くな」「寝るな」っていうのがありました。成績は悪くてもいいんです。でも先生に失礼だからとにかく起きていなさいと言われました。苦痛でしたね。試験は、資料持ち込み可の授業だけ受けていました。でも、ここで簿記に出会って、簿記は大好きになったんです。

 毎日の生活は、朝4時に起きて、走って、ご飯を食べて、掃除して、朝練して、それから授業。授業が終わってからまた練習です。ひたすら練習をしていました。短大のバスケのメンバーは、ほとんどが私立高校から来ていて、高校時代もバスケ漬けの子ばかりなんですね。だから同じ推薦でも、能力が全然違っていました。その違いを目の当たりにて、頑張るしかなかったです。練習の段階で、私は置いていかれてましたから。というのも、他の子たちは、高校時代に市邨学園で合宿をしているんですよ。だから他の子たちは入学直後でも、練習の仕方がわかってるんですよ。

 例えば、ゴールの上の板に片手でタップするウオーミングアップがあるんですけど、私は、やったことがない。他にも女の子は両手でシュートを打つものだと思っていたのに、みんなは片手で打つ。それも、右手と左手のコントロールに違いがないんです。股の下からドリブルを通すのも、みんな普通にやる。本当に違いました。でも、先輩たちが熱心に教えてくれたんです。短大は2年しかないから、必死でしたよ。毎日、早朝に監督の部屋の前にかかっている鍵を取って、体育館の鍵を開けて1人で練習をしました。それで途中で眠くなってくるので、体育館で寝てるとみんなが練習しに来るから起きる。そんな毎日でしたね。

 でも、すごく成長を感じていた時期でもあります。それまでできなかったことが、ある日突然できるようになるんです。すべてのスポーツに共通していると思うんですが、上手か下手かは、体重移動がうまくできるかどうかによると思うんです。それが最初はわかりませんでしたが、コツをつかんでからは楽しかったですね。試合でもベンチに入れるようになって、ベンチの上座に座れるようになって、スターティングメンバーになって、と少しずつ成長しましたね。

 私のポジションは、ガードです。リードガードとして、司令塔のような立場でもありました。バスケは、スピードがあるのが楽しいんですよ。瞬時に戦略を作って、「今コートはこうだから、次こういうフォーメーションにしたい」というのをベンチに了承を得ていました。全体を見渡して、コートの様子をベンチにいるコーチや監督にサインで伝える。瞬時に戦略を作ったり切り替えたりする能力は、バスケで鍛えられました。高校までは、自分は上手だと思っていたし、チームプレーというのもそこまで意識していませんでした。でも短大では他のみんながうますぎたので、私以外の人がもっと活躍できるような状況にすることが仕事だと切り替えたんです。

アイシンAW

 人生プランで目指した憧れの選手とは、短大までは同じ経歴でしたけど、就職先は違いました。その選手はオリンピックに出るくらいうまい方なので、日立戸塚という強い実業団に入ってらっしゃったんです。私は、バスケが強い企業に行けないことは自覚してました。

 短大の先輩が、自動車部品メーカーのアイシンAWに2人行っていて、その先輩たちが好きだったので、私も同じ会社へ行きたいと思っていました。アイシンAWは、今でこそ日本の1部リーグで6位になるくらい強いチームなんですが、当時はそんなに強くなかったですね。監督は、選手の就職先を広げるという目的で、私をトヨタ自動車に入れたがったんです。トヨタに入ったらお仕事は週に3日で、あとは練習なんですが、アイシンAWは、平日は普通にお仕事をして、練習は夕方に週3回程度です。土日に試合はありましたけど、夏休みも普通にありました。バスケの観点からいうと、トヨタに行った方がいいんでしょうけど、私はアイシンAWを選びました。自分の中でも、バスケに割く時間を減らして、仕事をしていかないといけない、と思ってたんでしょうね。

 アイシンAWでは、営業企画部という部署に配属されました。バスケで入ってきた人間は、秘書室や人事など、締め日がない部署に配属になるんですよ。試合で不在にするときがありますから。締めがない部署の中でも、営業企画部に配属されるのは珍しいと言われました。仕事は面白かったです。会社見学にくるお客様のアテンドをしたり、見学の企画を作ったりしました。アテンドの際は、簡単なところだけですけど説明する仕事ももらえました。

 仕事の中には、上司の作った企画書の清書や、役員のための資料探しもありました。当時はパソコンがなかったので、清書という仕事があったんですよ。きれいに書くのは、女の子の仕事だったんですね。上司の書いた字が汚いと、清書ができないから、ずいぶん勉強しました。役員にも同じようなことを頼まれていたので、役員室でも仕事をすることがありました。20歳くらいの若いときに、立場が上の人を見られたのはよかったと思います。

 世の中にパソコンというものが出てきたのが、ちょうどそのころでした。個人がパソコンを使って仕事ができるようになり始め、全社にパソコンを広めようという委員会ができました。機械好きの上司が、その委員会に入ると面白いんじゃないかと勧めてくださったんです。それをきっかけに、委員会に入りました。それが面白かったんです。私は自主的にIBMにパソコンを習いに行ったんですよ。それで、社員のみなさんに委員会に来ていただいて、パソコンの使い方を教えました。このころは、本当に仕事が楽しかったです。

 アイシンAWは、4年間勤めて辞めました。同じ会社だった主人と結婚することが決まったので、結婚退職です。当時は、結婚して働き続ける人がいないくらい、結婚退職は暗黙の了解でした。仕事を長く続けるつもりがなかったのは、バスケ枠を空けないといけない、というのもあったんです。枠数は決まっているので、私が辞めないと、次の子が入れないんですよ。アイシンAWを退社したら、専業主婦になると思ってたんですが、そうはなりませんでした。

河合塾

 あるとき、アイシンAWの営業3課の課長さんから、河合塾でワープロとパソコンの先生を探してると声をかけられたんです。推薦されたので軽い気持ちで行ってみたら、すぐ来てくださいとなりました。ちょうど、専門学校ブームが始まったころでもありました。河合塾でも系列の外国語専門学校をトライデント専門学校という名前に変えて、ビジネスとコンピューターと英語の専門学校にしたんですよ。私は、そこでも教えるようになりました。

 今の私の一番のベースになったのは、コンピューター専門学校での経験ですね。OA概論という授業で、8人くらいの講師で全クラスに教えないといけないんです。でも概論だから、普通に教えてたら眠くなっちゃうんですよ。それではいけないと思って、ワークを取り入れるようになりました。今でいう、アクティブラーニングですね。パソコンやワープロって、アクティブラーニングで身につけるものですよね。だから概論もアクティブラーニングにしたんです。短大生のときに、授業で寝るなっていうルールがあって、それがすごくつらかった。その影響で頑張ろうと思ったのかもしれないです。絶対に退屈させないし、寝させないと思ってましたから。

 ワークに使うためのポストイットやマジックペンを自腹で買って、学校に行ってたんですよ。そんなことをしていたら、給料が上がり、自腹で買っていたものも専門学校が用意してくれるようになったので、認められたと思いました。講師としてのベースは河合塾で出来上がりましたが、スタートはアイシンAWですね。アイシンAWのころに担当していた会社説明会のために、練習を自発的にやっていたんですよ。男性陣は技術的なものを持っているけど私にはそれがないので、伝え方を工夫しようと当時から思ってました。

さまざまな会社での経験

 そういうのを見ていたからなのか、そのうち、卒業生が会社を紹介してくれるようになったんです。最初はIBMでした。でも私は河合塾を辞めたくなかったので、ある会社のコンサルだけやらせてもらいました。そのころのコンサルって、クライアントのキーマン数名を対象としたものだったんです。でも、私はユーザーへのワークショップを開かせてもらいました。というのも、システム部のミッションを果たすには、従業員満足度を上げないといけないですよね。でもシステム部だけの意見で提案を作っても、従業員満足度にはつながらない。それは、コンサルとして意味がないと思ったんです。大切なのは、営業や経理のような、ユーザーにとっていいビジネス環境を作ること。ユーザーに、「どういう環境になったら仕事をしやすいでしょうか?」という疑問を投げかけるワークショップを何回か開きました。

 ワークショップをやっているとわかるんですが、ユーザーさんの本音としては、会社のシステムは変えてほしくないんですよね。今まで通りの手書きの伝票でいいのに、なんでわざわざ変えるのって思ってるんです。システム部に納得してもらうのも苦労しました。でも、システム部の人も、エンドユーザーが味方になってくれないことを経験しているので、あるところからは私のやり方を理解してくれたと思います。IBMでのコンサルティングの仕事のあとも、他の卒業生から同じように声がかかりました。それで、河合塾、富士通、JBCCでの仕事を、並行してやるようになったんです。

 そのころ、簿記も勉強していたんですよ。簿記を知っていないと、正しい原価計算などをお客様に提案できないと思って簿記の学校に通ったんです。そうしたら、その簿記の学校がパソコンとワープロのクラスを始めるということで「正社員として働かない?」と声をかけられたんですよ。それが中部会計専門学校です。

中部会計専門学校

 中部会計専門学校に入社するまでは、子どもができるかもしれないという気持ちがありました。だから正社員としては働いていなかったんです。でも今は仕事に集中しようと気持ちが変わってきました。子どもができたら、そのとき考えようと思ったんです。

 当時は簿記1級を取っていたので、パソコン、ワープロの他に簿記も教えました。でも入社して一番工夫したのは、入学前の説明会です。あのころの主なPRメディアって新聞広告なんです。そこで告知すると、いろんな方が説明会に来てくださって、説明がよかったら入学してくれるから、頑張りました。説明会では、授業内容を体験するようなワークショップをやりました。例えば、簿記の問題を簿記っぽくなく出します。それを同じチームになった人と自己紹介をしながら回答について話し合うんです。そうすると、仲良くなるんですよね。チームの誰かが入学すると、みんな申し込んでくれる。もちろん、ワークショップのメリットはそれだけではありません。簿記やパソコンを勉強することに興味を持っていただけるし、不安な方には安心してもらえたと思います。他にも、いろいろな工夫をして、結果的に説明会からの入学率が95〜98パーセントになりましたね。

 学生たちの資格試験の合格率をどうやったら上げられるか、考えるのも楽しかったです。考えて行動するのは、私の中では自然なことです。お客様が幸せにならないと、会社はもうからない。会社がもうからないと、自分の給料も上がらない。そのためにはどうしたらいいだろうと考えて行動していました。 

 その後、株式会社キャップスの副社長になりました。これは、中部会計の社長が、私の提案で作った派遣会社です。なぜキャップを作ろうと提案したかというと、専門学校には仕事を持っていないから、スキルを身につけて就職しようという人がきますが、卒業するころになると、学校が税理士事務所などを紹介したりしていたんです。それなら派遣会社をやったらいいんじゃないかと思ったんですよ。ただ、やってみると、すべて社長の力なんだなっていうのを実感したんですよね。それで自分で会社を経営したくなったんです。その話を社長にしたら、「いくつかお客さんを引き継いでくれる?」と言われました。それですっぱり辞めたわけではなく、起業してからも1年くらいは中部会計で教えていました。

ヒューマンエナジー設立

 会社を経営するなら、自分がやりたいことは講師だ、ということでヒューマンエナジーを立ち上げたんです。当時、有限会社の資本金は500万円必要でした。それで父親にいつか返すからということで500万円を借りて、私は50万円を出して、合計の資本金550万円からスタートしました。その550万円は一気になくなりましたよ。ちゃんとしたオフィスビルに入らないと怪しい会社だと思われる時代だったので、家賃が25万円くらいするところに入ったんです。コピー機や机や椅子も全部買ったし、経営って本当に大変だなと思いました。銀行からの借り入れはなかったので、少ない売り上げが全部、管理費や経費に消えていきました。最初の1年は、本当に大変でした。社員は社会保険に入れましたけど、私は無給で働いて、ずっと夫の扶養に入ってましたね。でも、私には屋根のある家があったので、十分だと思っていました。

 起業して数年してから、就職塾も始めました。中部会計やキャップで働いているときに、就職活動をしている人に接することが多かったんです。そんな中で、コミュニケーションがうまくないばっかりに面接に落ちてしまう人を見てきました。それでサポートしたいと思ったんですよ。私は、就職活動用の情報も集めやすい立場にいたのでできると思いました。大変だったのは、受講生の募集でしたね。DMを出すのも初めてで、1年目の受講生はたった2人でした。

 講師と就職塾だけでは難しいので、最初のころは、システム開発も請け負っていました。キャップから引き継いだお客様にシステム開発支援をしたり、そのお客様から新しいお客様を紹介してもらっていたんです。楽になってきたのは、平成8年くらいからだと思います。システム開発が本格化して大きな案件が入るようになって、大学でも就職指導をさせてもらえるようになってきました。

 今ヒューマンエナジーが出している組織研修という商品は、就職指導をしていた大学から、あるフォーラムに声をかけてもらったのがきっかけでした。そのフォーラムは、いろんな大学の人事や学生を呼んできて、パネルディスカッションをしようというものでした。私はその司会をしてほしいと頼まれたんです。そこでDCRさんの人事の人に声をかけてもらったのが、新人研修が始まりです。DCRさんの新人研修では、それまで培ってきたノウハウを使いながら、1から研修資料やテキストを作りました。そこで実績を積んだことで、日本経営協会から声がかかって、SWともお仕事をさせてもらうようになったんです。日本経営協会は知名度があるのが大きかったですね。

さまざまな事業を展開

 平成7年に、フランチャイズでキッズガーデンを始めました。これは、子ども向けのパソコン教室ですね。時期が早すぎて、全然受講生が集まらず、2年くらいで辞めました。その後も、平成13年には、大判印刷のフランチャイズを始めました。ポスターを作りませんかといって飲食店を回って営業するんですよね。これは軌道に乗って、3人雇いました。でも、大変になってきたので平成16年にやめましたね。

 平成20年から2、3年間、アパレルメーカーの販売をやったこともありました。取引先のトーマツにいた方が独立して、あるアパレルメーカーの税理士顧問をされていたんです。その方の紹介で、販売部分を任せたいというお話でした。人件費を減らしたい、というのが製販分離の1つの目的だったと思います。もう1つは、販売員さんが本社の営業の言うことを聞かなくて困っていたというのもあったみたいです。この仕事も面白かったです。札幌から鹿児島まで走り回って、販売員さんとお茶を飲んで、セールストークを研究しました。販売員さんは、製品が悪いから売れないと言うんです。メーカーの営業は営業で、会社の調子が悪くなってデザイナーさんを解雇しちゃったから、どこかで見たようなデザインばかり作ってるって言ってくる。みんなネガティブな発言をしていて、会社がどんどん悪くなっているところに弊社が放り込まれた、という状況でした。その会社が倒産する1年くらい前にうちも離れました。

 その仕事は、リスクはありませんでした。販売員さんの給料はその会社が払ってくれるし、経費はもらえますから。私は歩合給だったので給料は少なかったですけど、それよりアパレルを経営するチャンスなんてなかなかないので、すぐにやりますとなったんです。研修事業がうまくいっていたからというのもあります。従業員も一生懸命勉強して、それで稼げるようにしてくれましたから。

 当時は、大きくしたいという欲もありましたし、売り上げを立てなければ、という気持ちもありました。そうやっていろいろやる中で残ったのが企業研修です。システム開発は外注するようになってからは、弊社がいる意味はないと思いました。お客さんと外注さんの中取りをするだけで、貢献していないですから。それで、すべて外注していた会社に引き継ぎました。

共に働く人たち

 刈本さんは、平成13年にやっていた大判印刷の求人を見て来てくれました。求人は大判印刷のものでしたが、ヒューマンエナジーが研修をしていることを知り、研修をやりたいと入ってきてくれました。面接のときに、「かばん持ちからやります」って言ったんですよ。研修の経験も知識もなかったから、そう言ったんだと思います。

 以前SWさんのお仕事で、豊田市役所の全職員のITリテラシーを高めるための研修をしたんです。規模が規模なので、私1人では難しく、外部の先生にもお願いしまました。でも、その先生にクレームが入ってしまって、他に講師を探さなきゃいけなくなったんです。そこで急きょ、刈本さんにお願いしました。刈本さんは、ITがあまり得意じゃなかったのに受けてくれました。膨大な量の勉強をし、研修をやり遂げました。すごいなと思いましたね。社会人として、企業人としてすごいなと思いました。人望もあって、人から好かれるんですよ。営業も上手ですね。講師もしてますけど、営業やコーディネートにも自信があるんじゃないかな。それに、最初からお客さんは自分で取るものだと思っているんですよ。入社当初から営業をかけていました。

 刈本さんは私以上に、ヒューマンエナジーを残したいという熱が高いんですね。ずいぶん前に、「ヒューマンエナジーの社長やらない?」と聞いたことがあるんです。そうしたら、「私でよければやります」と言ってくれました。実際は1000万円の資本金をどうするのかという問題があって、実現できませんでしたけどね。

 河地さんは、アパレルの仕事をしているときに、入ってもらいました。その会社との事務的なやりとりがメインで、ヒューマンエナジーの仕事はしていなかったんです。今はヒューマンエナジーの社員としてしっかり働いてくれています。以前の河地さんはパソコンが苦手だったのに、今は私の仕事は河地さんがいないと回らないですね。まず私が作った資料は全部河地さんが整えてくれています。資料ができているので、確認してくださいというメールが毎日きます。

 私のお客さんの窓口はすべて河地さんなんです。メールのCCに河地さんを入れるところからスタートして、できることをどんどん自分で増やしていきました。河地さんは文章を書くのもうまいですね。私がお客様にちょっときついことを言わなきゃいけないときに、「こういう趣旨を伝えたい」と相談するんです。そうすると、柔らかく趣旨の伝わる文章を作ってくれるので助かりますね。

 他にも非常勤の先生や刈本さんのサポートもしているので、忙しいときは本当に忙しいと思うんです。でも上手に管理していますし、ネガティブなことも一切言いません。河地さんは、私たちを稼ぎやすくするためのポジションをプライドを持ってやってるんじゃないかな。

 永井さんは、河地さんのあとに入ってきました。もともと弊社の取引先であるトーテックの社員さんで、トーテックのお客様の研修を担当していたんです。あるとき、トーテックが研修事業をやめるという話を聞いて、お誘いしました。そうしたら、トーテックが持っていた研修事業部門のお客様を持ったまま弊社に入ってくれたんですよ。おかげで、それまでヒューマンエナジーが扱っていなかったような金額の取引ができるようになったんです。会社がひとまわり大きくなりました。でも「私が稼いでる」みたいなことは一切言わないんです。自分がいくら稼いでるか、ちゃんと貢献できているか、ということを冷静に計算しているように見えます。それに、ムードメーカーでもあるんですよ。

 堀さんは、私がやっていた就職塾を受講してくれた人です。以前も弊社で働いてもらっていたんですが、一度、出産子育てのために退職しました。でももう1回やりたい、と来てくれたんです。堀さんは、人間力みたいなものが刈本さんに似ていると思います。子育てしながら自分のキャリアを模索して、頑張っているところなんだと思います。今は、私と月に1回勉強会をしています。私と堀さんは、仕事上の接点が少ないのでコミュニケーションを取るために始めました。でも、やってみると面白くて。同じ目線で、1つの課題について語るんです。2020年の6月から定期的に続けてますね。

 弊社の社員は、他責発言がないですね。みんなが自立しています。 1人、1人と人が増えていくにつれて、ヒューマンエナジーも大きくなっていきました。それは、相乗効果が出ているということですよね。刈本さんが成長して、刈本さんの仕事が増える。永井さんが入って、スコープが変わって、扱う金額が増える。同時に他からくる仕事も増えているので、間違いなく、相乗効果が出てるんだと思います。

 刈本さんも河地さんも永井さんも、マネジメントがうまいんですよ。例えば刈本さんは、

30人くらいいる講師のマネジメントもしていますから、それは間違いないですよね。だからというわけではないですが、私は、マネジメントだけする社長ではなく、プレーヤー兼社長としてずっとやってきました。よく、「社長はマネジメントだけした方がいい」と言われますね。もちろん、その方が組織は大きくなるので、正しいと思うんですけど、私はその踏ん切りがつかないまま、ここまできました。私がプレーヤーでいた方が、会社はよくなると思ったんです。だから私はずっと稼ぎ頭でいようと思ってきました。社員に苦労はさせないぞ、という気持ちでしたね。

大学での学び

 平成27年に、早稲田大学人間科学部に編入しました。大学に入って勉強しようと思ったそもそものきっかけは、立教大学の中原淳先生でした。中原先生は、立教大学の経営学部の教授なんですが、学者らしからぬビジネス本を書かれる方なんですよ。そういうものを読んで、私たちのような研修講師も、発達心理学を含めた学術的な理論などを知っておかないといけないと思ったんです。中原先生の講演会に行ったり、大学の単発講座に通ったりしていたんですが、深く体系的に学びたいと思い、早稲田大学の人間科学部に入ることにしました。

 人間科学部では、学習環境デザインを研究しています。ざっくりといえば、人間はどういう環境であれば、学習が進むか、という学問ですね。例えば、人というのは、学習感の違いによって学びが変わってくるんです。学びとは「暗記するもの」だと思っている人と、「社会に役立てるもの」だと思っている人では、伸び方が違います。他にも、創発的協働について研究しています。人材の中には、自分が与えられた役割ではないことを、臨機応変に判断して行動できる人もいるじゃないですか。学習能力の高い人ですね。それはどうしてなのか、という研究です。

  仕事と勉強は、チャレンジングなところが共通していると思います。私は、仕事に関してはプロなのである程度できる自負があります。でも、勉強や研究はアマチュアなんですよ。だから、全くできない。でも、こんなにもできないのか、っていうのが面白いんですよね。 学び始めてから、自分の研修のキレがよくなっている気がします。研修のゴールは、研修終了ではありません。お客様の売り上げや業績アップがゴールです。学び始めてから、その意識がさらに強くなったと思います。

これからのこと

 事業承継を終えてからは、私がいなくなっても稼げる商品を作るという使命感が出てきました。私よりも他の社員の方が、長く残る可能性がある。それを考えると、もっとみんなが頑張れる会社にしておきたいと思っています。

 私はヒューマンエナジーを離れたとしても、一生ビジネスをしていると思います。「どうしてそんなに元気なんですか」と聞かれるんですが、それは走っているからだと思います。人間、体力が基本です。体力がなくなると、思考力も止まりますから。それに、私は休暇はほしいけど休養はいらないという考えなんですよ。旅行のために休暇はほしいけど、何もしない時間は必要ない。何かしているのが、私の当たり前なんです。

 いつまでできるかわかりませんけど、できる限り走り続けていきたいですね。

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