THE HISTORY OF NAKANO-AUTO
Interview
2019年9月24日
創業の雑誌「今日から明日へ」発行に向けて、長岡市に住む中野功氏を訪ねた。東京から新潟に疎開し、親代わりだった祖父に厳しくも愛情豊かに育てられた功氏。少年時代の山との出会いが、彼の人生を大きく変えた。登山家から経営者へと軸足を移してからは、「自主自立」を己に言い聞かせ、クルマで多くの人たちを笑顔にしてきた。山を愛し、仕事を愛し、従業員や家族を愛する彼が、人生の今までとこれからを語る。
誕生日:1943年4月9日
学歴:新潟県立三条高校定時制課程
家族:6人家族(妻、息子夫婦、孫2人)
趣味:鮎釣り 歩くこと
座右の銘:自主自立
カラオケで歌う曲:河島英五 野風増 谷村新司 昴―すばる―
影響を受けた本:松浦佐美太郎「たった一人の山」
好きな曲:Ray Charles Yesterday(カバー)Louis Armstrong What a Wonderful World
昭和18年、文京区の小石川で生まれました。うちは婿取りなんですよ。祖父が軍人さんで、娘が1人いて、そこにうちのおやじが婿にきたんです。軍人といっても鉄砲の弾ひとつ撃ってないんで、軍人といえるかどうかわからないんですけどね。
戦争の記憶はないけど、終戦後、3歳くらいのときに一度廃墟化した東京を母親と歩いたら焼け野原になっていて、子ども心にとんでもないものだったんだなというのが記憶に残ってますね。
疎開で、昭和19年には新潟に来ていました。亡くなった父親の兄弟が三条で商売をやってたんで。父は、早くに亡くなってしまいました。その後母は再婚して、義理の父親は今も近くに住んでいます。
おふくろは一人娘だったんですよ。祖父の教育で東京の師範学校に入ったんです。そのあと日本郵船でタイピストになったと思います。終戦後はGHQの社員になって、引き続き東京でタイピストをやっていました。厳しい人ではなかったですね。あまり母親らしくなかった気がするな。怒られた記憶というと、弟ととっくみあいのケンカをしたんですよ。
そのときは、物差しをがーっと持ってきて、2人ともぶんぶん殴られたな。その1回だけですね。おふくろはきれいな人でしたよ。
子どものころは、決して裕福ではありませんでした。でも、祖父が軍人だったので、その恩給がありましたから、なんとかなったんだと思います。
中野家のルーツは、宮城県の白石の、片倉小十郎家の家臣にあります。祖父はそこから出てきて、軍人になった。祖母はうちのおふくろが子どものころに亡くなったので、男手ひとつで娘を育てたんだね。うちはおふくろが昼間働いていたので、幼少から高校までずっと祖父が親代わりで教育というか、しつけをしてくれました。厳しい人でしたよ。挨拶や礼儀作法、勉強もすごく厳しかった。高校1年のときに平成天皇がご成婚されたんだけど、その結婚式の翌々日に祖父は死にました。その後の成績はもう最悪でね。それくらい、祖父が勉強を見てくれていました。
兄弟は、4つ違いの弟がいます。小さいころはよく一緒に遊びましたね。ずっと、僕の後ろをくっついてきていました。僕が山をやるようになってからは、そんなこともなくなりましたけど。
小さいころの遊びというと、三角ベースの野球ですね。そういう時代でした。雪が降っても靴下はいてくるような同級生はいなくて、学校での上履きは藁のスリッパでね。給食が唯一の栄養補給なんですよ。戦後、何もないところからのスタートですから。物の運搬も、馬車か馬そりなわけですよ。車も限られた数しかなかったし、除雪車なんてのもなかったから、冬は大変でした。
時代が変わってきたのがわかったのは、例えば雨具ですね。小学校低学年くらいのときは、藁ぐつや茣蓙(ござ)帽子の人が多かった。あとは唐傘。冬でも高げただったりね。
それが、小学校の4、5年になってから長靴が履けるようになりました。うちは両親が共働きだったので、寂しいだろうということで町内でも最初にテレビが入ったんです。相撲の中継があると近所の人がみな見に来ていました。白黒の、写りが悪いやつね。
朝鮮戦争のおかげで、景気が良くなって、ものを作れば売れる時代になりました。見通しのいい時代だったと思います。当時は生きられること自体がありがたいことでしたから。
僕は、戦後生き残って頑張ってきた人たちが、日本を立て直してきたんだと思いますよ。
小学生のときは昆虫採集が大好きでした。網を持って、山に行くわけですよ。片道2時間も3時間も歩いてね。山の中でチョウチョウを採って、三角の袋に入れたり、標本にしたりするんです。そのうち、チョウチョウの雄と雌を捕まえてきて、卵を産ませて飼育するようになりました。だから家じゅう毛虫だらけ。家族は、それはもう嫌がりましたよ。
山へ行くと、春ならタケノコ、ゼンマイやワラビがあったり、秋になれば栗がある。それを持って帰るとやっぱり、親が喜ぶんだよね。そんな親の喜ぶ顔がうれしくて、タケノコを盗んだこともありました。
勉強は、小学校のときは全校生徒でトップクラスでした。夏休みの宿題でチョウチョウの飼育観察日記をつけて、市の小学校の発表会で表彰されました。まぁ、祖父が先生でしたからね。
中学生になってもやっぱりチョウチョウを追いかけてました。そしたら、親が勉強の妨げになるっていうので標本も幼虫も全部燃やしてしまったんです。もう、全部。ショックだった。それでチョウチョウは諦めたんだけど、山を歩くというのはすごく心地よかったから、山は続けたかったんですね。
そのころ読んだのが、松浦佐美太郎の『たった一人の山』と、エドモンド・ヒラリーの『エベレスト初登頂』です。山の神秘性というか、高山の神秘性というのに触れて、すごくわくわくして胸が躍って、よし山をやろう! というふうになった。それが大きなきっかけだと思います。
中学3年のときに、日本山岳会に入れてくれと新潟県事務局に行ったんですよ。ほんの14、15歳の子どもがね(笑)。でも日本山岳会は推薦者がいないと入れないし、有名な大人しかいないわけ。だから無理だということで、峡彩山岳会という市の山岳会に入ったんです。新人だと、テントをしょわされるんですけど、当時のテントは帆布でできてるから、重くてね。35、36キロはあったかな。しかもテントというのは、日増しに夜露を含んで重くなる。ところが他の連中は、燃料とか食料とかだからどんどん減っていくでしょ。
僕はテントが重くて、重くて、周りの景色なんてほとんど見られない。こんな山はやるべきじゃない、性に合わないと思ったね。それで、先鋭的な岩壁登攀(とうはん)を志向するようになったんです。高校生のときに、三条駒草山岳会に入りました。
高校は夜学に行く予定じゃなかったんですよ。でも、第一志望校に落ちてしまって。長岡工業高校の電気科を受けたんです。倍率が3・2倍。今は誰でも入れるかもしれないけど、当時の工業高校の電気科は就職率が高かった。僕も進路がはっきりしていなかったから、就職率がいいということで電気科を受けたんです。でも落ちちゃって、遊んでるわけにはいかないから夜学に行ったんですよ。夜学は普通科の進学校でした。定員に達していなかったので、無試験で申告するだけで入れましたね。
夜学だと昼間働くでしょ。僕は三条のとある整備工場で自動車の整備をやっていました。
自動車整備というのは花形だったからね。壊れてる車を直すっていうのは、すごいことじゃないですか。あのころの車は、壊れるのが当たり前だったんです。整備屋さんはもてはやされましたよ。お客さんが菓子折りを持ってきて、早く直してくれという時代でしたから。
昼間働くと、4000円か5000円の月給がもらえるんですけど、それがうれしくてね。そのお金で山に登りました。高校生のころは、ばんばん山に登ってましたからね。谷川岳に行く交通費が700円か800円くらいでした。登山活動をする上では、夜学に通ったのは非常によかったと思いますね。
自動車整備の能力は身に付けましたが、資格は取れませんでした。整備は好きでしたけど、当時は山へ行くために仕事をしていたので(笑)。車の下に潜って整備をするときも、腹筋を鍛えるとかいって、すべてを山につなげていました。そのころは腕力もあって片手懸垂もできたし、腹筋だって6つに割れてました。すごくいい体をしてましたよ。そのぐらい、山に集中してました。
三条高校の定時制に山岳部がなかったので、僕が作ったんです。入ってきた部員たちを山に連れて行ったり、校内登山で30、40人を連れて行くんですよ。今考えるとぞっとするね。何かトラブルでもあったらとか、そんなことは考えなかった。高校のころは、山岳部と駒草山岳会と、平行してやってました。
当時は、高校体育連盟で高校生は冬山と岩登りは禁止だったんです。でも僕は、谷川岳の一の倉の困難なルートを高校時代にいくつかマスターしちゃったんですね。うまかったんですよ。鷹匠足袋にわらじを履いて、それで登ってました。
定時制を卒業したあとに、今のスズキディーラーに入社しました。整備をしていたからというつながりで、最初は整備要員でした。のちに会社命令で営業に回されましたね。
仕事は頑張ってやりましたよ。でも、冬は土日月とかで休んだりしてましたから、会社からはいい社員だと思われてなかったかもしれません。だけど、社長はものすごくかわいがってくれました。仕事をきちっとやっていたおかげですかね。
当時はもう、山、山、仕事のような気持ちでした。山、山、山くらいかな(笑)。それくらい山は強烈なんですね。冬の岩壁登攀(とうはん)なんてやったらしびれますよ。危険だからいいんです。危険がなかったら行かないですよ。
そのころになると、ヨーロッパで活躍している登山家の翻訳本がたくさん日本に入ってきたんですよ。高校時代に読んだ『たった一人の山』や『エベレスト初登頂』もほとんどヨーロッパが舞台でね。そういうのを読むと憧れが募りましたよ。日本全国でヨーロッパへ行こうという機運が高まっていました。何人か日本の有名な登山家もヨーロッパへ行ったんです。それで、我々も行けるんじゃないか、どうかな?行けるかな? 行きたい、いや行こう行こう! と、どんどん変化していったわけです。
谷川岳は2000メートルしかないんですけど、ヨーロッパはほとんどが標高4000メートル以上なんです。岩と雪と氷の世界ですから、どうしても冬の岩壁登攀(とうはん)を経験しないと、ヨーロッパに行っても駄目だろうということになりました。新潟県というのは雪国ですから、1年の中でも今日はとんでもなく寒いっていう日があるんです。あえてそういう日に、僕はヘッドランプと山道具を持って、夜中1人で凍った沢を登りに行くんです。冬の岩登りを練習したいというわけでね。まぁ、バカだったね。それくらいやらないとヨーロッパには行けないと思ってました。山に対する情熱は、誰にも負けないんじゃなかったかな。
冬の岩登りっていうのは新潟県の岳人の中では憧れでしかなかったんです。でも僕は、ある年の冬、椿君と小黒君と3人で谷川岳に行きましてね。小黒君は吹雪でとても無理だっていうので帰っちゃったんですけど、僕と椿君は冬の南陵を登って、頂上の小屋に泊まって帰ってきました。それが冬の一の倉の南陵登攀(とうはん)の最初だったんです。それはもう大きなニュースですよ。その成功が、新潟県の山岳会のすごい刺激になったと思います。彼らが登れるなら僕たちも登れるっていう人が増えて、それが、翌年1月の駒草山岳会の一の倉合宿の二重遭難の引き金になったんだと思います。
駒草山岳会の岳友3人が勢いに任せて、一の倉を目指したんですけど、豪雪と吹雪で上にも行けない下にも行けないで動けなくなったんですよ。2日たっても3日たっても下りてこない。これは遭難だ、ということで我々が救助に行ったんです。当時は山岳レンジャーなんてないですから。遭難地点に近い避難小屋に前進基地を作って、サポート隊と救助隊、5名ずつ計10名で救助に向かいました。
小屋といっても窓もなくて屋根があるだけですから、その屋根の中に夏用のテントをたてて、外に冬用の最新のテントをたててね。サポート隊が小屋の中に、救助隊が僕も含めて5人が外に泊まる予定でした。ところが僕が前の日から下痢してて、避難小屋のトイレで寝てたんです。それで、僕の代わりに今井君が救助隊のテントに入ったんです。そしたら夜中の3時ころに頂上から大雪崩が起きて、そのテントをつぶしちゃったんですよ。それで5人が亡くなりました。僕はトイレにいたから助かった。その中の1人をなんとか引っ張り出して、人工呼吸したけど、瞳孔が開いちゃってました。
小屋の中に残っていたサポート隊の他の4人は冬山はまったくの素人でした。その4人はなんとしても助けなければ、と思ってね。まずは彼らを無事に山から下ろすことを考えました。小屋にあったスキー板を靴にくくりつけて、助けを求めに1人で下りようとしたんですけど、途中で雪崩にぶっ飛ばされました。これは僕1人で行っても、危ない場所が途中に何カ所もあるから死んでしまうと思い、一度戻って、全員連れてなんとか下まで帰りました。
救助に行った5人と、遭難したうちの1人が亡くなりました。計6人ですね。それは、近代の山岳遭難の中でも極めて異例で、悲劇的な遭難でした。
そのとき、自分の本当の友達を失ったんです。特に岩登りのパートナーというのは誰とでも組めるわけじゃない。登山技術もさることながら、あいつなら信頼できる、という相手じゃないと駄目なんですよ。そういう仲間4人が、ばかーんとやられちゃったわけです。
それはもうショックで、立ち直れないくらい沈みましたよね。初めての大きな試練です。
本来ならそこで僕自身も山をやめるんでしょうけど、そうはならなかった。むしろ、彼らの分まで登らねばならんと、そういう思いが湧き上がってきて。むしろそこから、激しいルートに挑戦するようになりましたね。
実はその後も、後輩が2人死んでるんですよ。彼らが、山に行く前々日に僕にルートを聞きにきたんです。それが死んでしまった。このときは悩みましたね。僕の2度目の試練です。
でも、何回遭難で仲間を失ってもやめる気にならなかったです。なんとして、彼らの分まで登ってやろうという気持ちがますます強くなった。
山登りで大変だったというのはなかったですね。ただもう歓喜、歓喜。二重遭難で仲間が死んだ年の暮れには2週続けて冬の一の倉の難ルートに成功したんですよ。そのときは、本当に天にも上るような気持ちでした。彼らの分まで登れたと。それに、この先にヨーロッパへの道があると思いましたね。アルペンクライミングは、宗教に近いというか、ものすごく精神的なものなんですよ。バカになっちゃうんです。誰が見てるわけでもないし、登ったからってお金もらえるわけでも拍手喝采浴びるわけでもない。自ら危険なときに危険なところに行って、その代償は、ただそこに登ったという自己満足。バカな遊びですよね。でも、だからこそ面白いんだと思います。
冬の山登りのことはすべて鮮明に覚えています。それだけ強烈なんです。だって冬は誰も登らないから。それをやっておかなかったら、ヨーロッパに行っても通じないなと思いましたね。
昭和48年に退職して、仲間とヨーロッパ遠征を計画しました。仲間は3カ月だけ会社を休んでということでしたけど、僕は退職して、3年間ヨーロッパにとどまるつもりで向こうに荷物を送っちゃったんですよ。向こうのパン屋さんに就職口も決まっててね。合計6人で行く予定でしたが、実際には行かなかった。それが最初の挫折です。
12月25日に会社を辞めて、27日からヨーロッパに行く仲間と合宿をしてたんですけど、隊長が家庭の事情で行けなくなってしまって。ほかの人もばたばたーっと行かないとなってしまってね。彼らは3カ月の有給を取ってただけ。でも、僕にしてみたら冗談じゃない、という気持ちですよ。
そのときも落ち込みました。僕の意識は常に山にありましたから。それはもう、ものすごい悔しいですよ。別の仲間から、3カ月でいいから一緒に行こうと言ってくれる人もいたんです。でも僕には、3カ月では意味がなかった。せっかく行くならもっともっと登りたかった。ヨーロッパは遭難救助の先進国で、その技術も学びたかったからね。それで、とにかく生活環境を変えようということで、群馬に引っ越して高崎のトヨタディーラーに入社したんです。そこで山をやめるつもりでした。やめてたんですよ、実際。行ってなかったからね。
女房は三条の出身です。末っ子なんですが、兄貴と僕が知り合いで。そんな縁で。群馬で結婚しました。僕は、山をやってたからお金がなくてね。安もんの指輪を買って、残ったお金で生活できるかどうかという感じでした。山に登ってる仲間はみな山にすべてをつぎ込んでしまうので、まともな結婚なんてできないですよ。
女房と共稼ぎしていたので、結構いい給料をもらってました。月に2、3回はぜいたくして食事に行きましたね。群馬ってものすごく米がまずいんですよ。新潟は米がおいしいから、群馬の米は食えない。それと、魚がない。だから、おいしいところを探し歩いて、よくあっちこっち行きましたね。そうやって遊んでいたけど、当時月10万円残ったんですよ。それが開業資金になりました。
昭和51年に群馬のトヨタディーラーを辞めて、商売するということで長岡に帰ってきました。そこで株式会社中野車両工業をつくったんですね。 最初のころは、会社はあまりいい状況じゃなかったんです。どうやっていいか、僕自身わからなかったしね。
そんなとき、県内の山岳会の若い連中に山に誘われました。当時僕は、山の仲間では新潟県の伝説の人、という感じでしたからね。一緒に登りましょうと誘いがくるわけですよ。
その若い連中がホープだったんですけど、その連中よりも僕のほうがうまく登れたわけ。
それで一気に返り咲いちゃった。それでまた登りだして。やめられませんでしたね(笑)。
40歳になる前の6年間くらい、またがーっと登りました。
このころ、経済評論家の長谷川慶太郎さんが書いた本で規制緩和について読んで、これからおっかない社会になるなと思いました。規制緩和というのは、自由競争ですよ。価格破壊ですよね。今でもあまりもうからないのに、そうなったらこの業界絶対にやばいな、という危機感があったんですよ。それで気分直しに山に行ってたんです。山に行くとスカッとするからね(笑)。
40歳近くなると体力的にも厳しくなってきて、いつやめようと思いつつ登っていましたね。特に40歳になった年の正月に山梨の甲斐駒ヶ岳の黄蓮谷へ3泊4日で行ったんです。
本格的なアイスクライミングルートですが、昔のようにはできなくなっていた。年齢を感じました。
僕が山をやめるきっかけが2つあって、ひとつは日本の登山界の変化を肌で感じてきたからです。アルペンクライミングというのはより高くより険しくを求めるのですが、僕がやめるころというのは、ボルダリングや海岸の岩を登るとかが専門誌を占めてきていた。
それがすごく嫌だったんです。僕は山の頂上を追及したかった。だってあんなの天候関係ないじゃないですか。短パンやTシャツで、落ちたって絶対に死なない岩登りなんてね。
山っていうのは、いろんなプレッシャーの中でやらないといけないという思いがありました。僕には、そういうのは猿まねだという意識がすごくあったんですね。でも当時そういう方向に登山界全体がいこうとしてて、とても抵抗があったんです。山の登り方には強いこだわりがあったんですね。
山をやめるきっかけのもうひとつが、息子が3歳のときに遭った事故です。妻の実家の近くに150メートルくらいの垂直の岩壁があるんですが、ものすごい暑い日にそこを登ってたんです。3分の2くらい登ったところでやめて下って、下の食堂でビールを飲んでたんです。そしたら、そのお店の人が「あんた、中野さんじゃないか」と。「はいそうです」と言ったら「バカどこ行ってた!」とね。「子どもがひかれたぞ!」って。息子が事故に遭って消防団がお前のこと捜してる、って言われたんですよ。びっくりして、その場から女房の実家に電話したらおばあさんが出て、車にはねられた、って。
すぐに三条の病院まで友達に連れて行ってもらいました。僕が到着したときも、まだ意識不明だったんですよ。3、4時間意識不明だったのかな。でも僕が着いて15分くらいたったらワーっと泣きだしてね。頭がい骨骨折と左足複雑骨折で、大変だったんです。すぐ三条の病院から長岡の日本赤十字病院に転送されました。僕はその手術を窓越しにずっと見ていました。息子の姿を見ながらものすごく、深く反省しました。僕は自分勝手なことをやっていたとね。山に夢中になってたから、女房とあちこち行くこともなかったし、休みっていうと山に行ってたから。それが当たり前と思ってたんですよ。
子どもをどこかに連れて行った記憶もあまりなくて、いいお父さんじゃなかったね、正直。連れて行ったとしても、ほとんどが山のキャンプ場。そこに女房と息子をおいて、仲間と山に登りに行ってました。女房にとってもいい亭主ではなかったと思いますよ。
山の道具が入ってたタンスを封印して、それから仕事バカになりました。当時40歳ですから、70歳までの30年間。でも仕事バカになったからって仕事の業績がよくなるわけじゃない。とにかく、必死でしたね。
自動車整備工場というのは、構造的な不況業種のひとつなんです。車って、1年で技術革新が進むんですよ。僕が入ったころはすぐ壊れていたのが、メンテナンスをちゃんとやっていれば、全然壊れない。それくらい品質がよくなってきたんです。鉄板ひとつとっても錆びないしね。整備の需要っていうのはなくなってきてるので、普通の整備工場は8割くらいは赤字です。その中で、結果的に、ナカノオートは赤字を出さずにここまできました。
当時、昼間は整備をやって夕方になると背広に着替えて、お客さんのところに訪問して受注活動していました。車検させてくださいと言ったり、車を売ったりね。いろいろとやって、業績を保ちました。 赤字にするわけにはいかなかったんです。というのも、商売をやる上ではどうしても資金が必要になりますよね。うちのような仕事だと、車がどんどんよくなっていくと、整備の機械工具もそれに合わせて買わないといけない。そうすると、すぐ100万、200万必要になるんですよ。
そういう資金は金融機関から借りるしかないわけです。景気がいい時代で、銀行が金を貸すには不動産担保が絶対的条件でした。でも僕は借家住まいだから銀行に差し出す担保がない。決算書と親の信用だけなんです。金利も非常に高利でしたが、それでもやっていくしかなかった。親が保証人になっても、決算書が赤字だったら銀行はお金を貸してくれません。僕の給料は普通の社員よりも安かったです。経費を抑えるという意味でね。そういうことをして、決算書だけはなんとか赤字にはしませんでした。40数年間、黒字を続けた企業はそうありませんよ。
平成7年に、全国FCの車検のコバックに加盟しました。そのころ、脱車両法経営というのが盛んに言われていてね。法定需要に頼って経営してちゃ駄目だよ、という意味です。
それでみな販売に注力した時期がありました。でも販売すればアフターサービスが必要になる。整備はカービジネスの基本と思い、うちは整備を主力事業として顧客を増やそうとなったときに、コバックに入ったんです。
そのときは社員からすごく反対されました。コバックは低価格戦略なので、粗利が2割くらい落ちる。これはきつい。だから駄目だというわけです。でも僕はやると決めていましたのでね。当時の工場長と一緒に本部に行って反対する彼をなんとか口説いて。他店よりも安いんだからお客が来て当たり前だろうとなりがちですけど、品質はいい、なおかつ対応もいい、というふうにしないといけないと考えました。低価格戦略だけじゃなくて、接客対応や整備品質を高めるための人材教育なども併せてしっかりやりましょうということでね。
僕はコバックを始めた3年半で60日くらいしか休んでないんです。自分の人生にプレッシャーをかけたんですよ。本部の社長からは、予算が続く限り毎週チラシを折り込めと言われてました。頑張ってチラシを作って、休みの日でも予約が入るのが楽しみで、会社に出てました。失敗できないし、したら終わり。それくらいの覚悟で仕事をしてました。結果的に、大変成功したと思いますね。同じようにやっても失敗した会社もあります。何がよかったかといえば、やっぱりお客様の期待に応えようと努力する社員ですね。それが一番大事ですよ。
私が考えた経営の基本戦略というのは、集客戦略とそれに続く顧客満足度戦略、固定化戦略、発展戦略です。集客戦略というのはコバックのものでもあって、コバックは折り込みチラシで集客するんですよ。その先にあるのが、満足戦略。つまり、来たお客さんを徹底的に満足させる。そして来店頻度を増やし固定化させて顧客になっていただこうという戦略、これが固定化戦略です。車検は2年に1回なので、その間の来店を増やしたいから、いろいろなキャンペーンをやったりしてね。そして、車検で来たお客さんに、冬になればスノータイヤもうちで買ってもらったりするのが発展戦略。最終的には車の代替えまでお手伝いさせていただく。そのサイクルでつなげていこうと。点ではなくて線で接していこうという戦略でやっていってるわけです。その中で、社員の態度が悪いとお客さんが離れていくわけですよ。でもうちは、今では7割ぐらいが固定化されてます。もうチラシも配らなくていいくらいです。
整備士の資格で取得が難しく花形なのが自動車検査員です。指定工場には必ず1人検査員がいなきゃいけない。普通の会社だと、指定工場でも1、2人しかいません。でもうちは、社内に9人検査員の有資格者がいます。うちに入ってから資格を取らせたりして、社員に積極的に勉強させてるんです。資格を取れば、資格手当も出ますから。僕は、整備士なら検査員取らなかったら話にならんと言ってます。僕自身は検査員取ってないんですけどね(笑)。検査員が9人いるというのは、他社にはありません。同業他社との差別化としてよくやれていると思います。僕らの上部団体で整備コンクールがあるんですけど、うちの工場長が新潟県代表で出ています。そういうことからも、当社の技術力や知識力というのは高いと思いますね。
平成12年にISOを取りました。自動車屋さんでISOを取ったのは、新潟県では最初です。経営者が一番悩むことは、社員をどう把握していこうかというところだと思うんです。そういう中で、ISOという規格の中に社員を当てはめていこう、その規格通りにやっていけばできるだろう、その方が楽だろうということで始めたんです。
ところがやってみたら、社員は1人1人感情があるから規格の中には落とし込めないんですよ。コミュニケーションを深め課題を共有し、同じ方向に向かって社員1人1人の意識を高めることによってよくなるものなんです。
ISOは維持費もかかるんですけど、破棄しないで維持しています。というのは、ISOに認証されている会社であるというのは大きなセールスポイントになるんですよ。コバックというのは低価格戦略なので、品質を疑われる。その点でも、品質規格であるISOがあった方が強みになりますね。
ISOを取っているというのは、先方さんに安心感を与えます。ISOを取ったことによって売り上げにどれだけ貢献しているのかはわかりませんが、取ってよかったですね。
トラック市を始めたのは、僕が60歳のとき。当社はお客さんがほとんど個人だったんです。これから先、少子高齢化していく中で、個人だけではなく、法人も必要だなと考えました。法人となると、ライトバンやトラックです。そんなことを考えて、トラックの販売を本格的にやることを決意しました。
平成15年4月9日、全社員が集まった慰労会の席で、僕はトラックの販売をやると言いました。そうしたら全社員が大反対です。女房も大反対でした。なんで60歳で新規事業をやるんだと。トラックと乗用車ではまったく世界が違いますしね。でも、絶対やると決めていました。僕はおっかながりで、なにかをやって失敗するのが嫌だから最悪な場合を考えるわけですよ。その上で決断して、決断したらもう変えません。
この気持ちは、山登りで培われたと思います。山というのは、道路標識もないところを常に自分で考えて登るわけです。リスクに対する備えをすごく考えるんです。その代わり、決断したら徹底的にやる。それが僕の気性なんですね。やらないと答えが出ないというか。
でも、楽ではありませんでした。毎週水曜、土曜の朝3時に起きて車で高速を飛ばして関東まで行くんです。展示するためのトラックの仕入れが目的です。60過ぎてますから、体がきついんですよ。トラックを始めて半年くらいのときでした。いつものように、朝3時に起きて運転していたら、赤城のあたりで涙がぼろぼろ出てきてね。100キロくらいで走りながら、涙がぼろぼろ出てくる。なんで、この年になってこんなことやらなきゃならないんだと思ってね。でもそれは自分が人を育てなかったからだ、と気づいたら笑えてきました。トラックのことがわからないんだから、少しずつでも任せられるようにと、トラックに詳しい元社員を引き戻して、他の社員も教育して。手探りでしたが、同友から教えてもらいながら、自分たちの強みを伸ばしていきました。
おかげさまで、トラックも15年くらいたつかな。順調ですね。金融機関にも信用があります。それまでの土台や社員が頑張ってくれたおかげですね。
うちはトラックの品質にこだわっています。それがすごく評価されていて、購入いただいているのが農協さんやディーラーさんなんかの同業者なんですよ。トラックの販売は商圏が広く全国なんです。トラックの専門店なんて、そうないですから有利ですよ。数多く、いいもの持っていれば全国から注文がきます。最近は大手が参入し、競合することも多くなってきましたけどね。
以前、経済が順調なときは小さいところが大きいところを食いつぶす、ということもできたんですよ。小さいところはフットワークがいいからね。でも今はできないです。やっぱり大きい会社が小さいところをつぶしていくんです。投資ができない会社は難しいですからね。要は、資金調達能力があるかどうか。それがうちの業界でやっていける決め手になると思いますよ。それはつまり信用です。
信用というのは、1年や2年じゃ作れない。特に金融機関は本当に厳しいですから。その信用を、僕が土台として作れたと思いますね。
整備工場には、認証工場と指定工場の2種類あるんです。指定工場では整備も検査もその会社でやっていい。うちは指定工場なわけですが、指定工場の1年間の平均の車検件数は今500台割ってると思います。でも、うちの会社は今4500台。20年以上かけて、そういう土台を作ってきました。お客様とのつながりを大事にしてね。
息子は高校を出てからアメリカに留学しました。テキサスの短大で美術を専攻していたようです。当時僕は丸紅カーリースシステムの新潟の代理店をやっていたのですが、うちは全国でも指折りの代理店でした。僕がアメリカに招待旅行で行ったとき、息子とロスの空港で待ち合わせして旅行に同行させたんです。そのとき社長に「卒業したら丸紅に入れてやる。現地法人で10年くらい勤めて日本に帰ってきたらエリートになれる」と言ってもらったんです。それはいいなと思ってたら、ひょこっと帰って、整備工場をやる、と言ったんですよ。
うれしい反面、心配でしたね。半々です。息子が帰ってきて会社に入ってからの方が、僕自身が仕事に熱が入ったというのは間違いないですね。もともと、会社を継いでほしいとはあまり思ってなかったんです。この先も景気がいい業界だったらいいけど、車の性能はどんどんよくなって整備需要は減るし、少子高齢者社会で車の台数も減っていくからね。
70歳から9カ月たった11月に、息子にバトンタッチしました。そのときの相続の関係で一度だけ計画的に赤字を出しましたけど、そのあとも息子はきちんと黒字を出してくれています。
息子には、やっぱり社員から慕われる社長になってほしいですね。息子にはできると思いますよ。社員から慕われるというのは、事業をちゃんとやって、うまく配分するということですよ。こき使ってたり低賃金でやってたら、そうはなりませんから。
僕は息子に、商売の仕方がこうだとかああだとかあまり言いません。義理とか恩は大事だよとかそういう抽象的なことしか言わないです。それを本人が咀嚼(そしゃく)して、いいように受け取ってくれてるんだと思うんです。
会社がどれだけ社員の人生の経済的な部分をカバーできるかわからないですが、人生には自分の努力ではどうしようもないことがあるんです。不条理なこと、不合理なこと、世の中にあふれるくらいあるじゃないですか。そうなったとき、やはり大切なのは自主自立の精神だと思います。自助共助公助というのがあるのなら、最初に自助。それを高らかに掲げて生きていってほしいなと思います。希望通りにいかなくてもそれに負けないで、自分の人生は自分が最高責任者という気持ちでやっていってほしいですね。
僕はこんな病気をわずらって、今はステージ4です。人生3つ目の大きな試練ですね。
余命いくばくもないですが、今人生を振り返って、悔いはないです。まぁ、もうちょっと酒を飲みたかったな、というのはありますけど(笑)。
うちの社員にも、そうあってほしいんですよ。死ぬときに、自分の人生はいい人生だったなと思えるような、負けないで、後悔のない人生を送ってほしい。
社員に求めるのは、学問的なことではなく、人間力です。勇気を持って自分の殻をどんどん破って困難を乗り越えられる人間になってほしいと思います。
僕は試練に直面したり挫折をしたことが何度もあります。でも、挫折しても、もう一度立ち上がっていかなきゃならん。それを僕はうちの社員にずっと言ってきました。過ぎたことはしょうがない。過ぎたことは戻りませんから。でもそれを教訓として、そこからまたスタートを切ればいいじゃないかと、今まで話してきました。そこから頑張れない人と頑張れる人がいるけど、うちの社員はみなそこから頑張れる人たちです。
だからわりとうちの連中は意識が高いです。お客さんへの接し方とか、人間的にはしっかりしてると思いますね。
どんなに言って聞かせても、理解できない、理解していても内気でお客様に挨拶できない、そういう人もいますけど、クビにはしません。配置転換して、その人たちが生きる場所で、最後までうちにいてもらいたいなと思います。
いろんな問題があると思うんですけど、そういうことも含めて、社員とすべて共有するということですね。ナカノオートの目的は、社員と社員の家族、経営者と経営者の家族を継続的に幸せにする、経済的に豊かにする、というところにあります。きっと社員の側も、うちの会社は社員のことをきちんと心配してくれていると思ってくれているでしょう。
入社してくる社員がみな積極的に動ける人じゃない、個性や環境でいろいろ違いますからね。入ってきたときに5段階評価で2の子が3になって、翌年には4になる。そんな会社の雰囲気作りが大事だと思います。社員とコミュニケーションを取ることは常に意識していますね。
僕が社長だったときは、工場にも行って社員の肩たたいて「おう、調子はどうだ」とやったりしてました。あと、これだけは絶対やると決めて続けてきたのは、毎年の忘年会です。昨日入ってきた社員の子も含めて、全員にお酌するんです。「頼むな、よろしくな」とね。昔僕がいた会社の社長がそういう人でね。それで僕も、これだけは絶対やろうと思って、まねするようになりました。
社員は社長にそうやられるとうれしいと思いますよ。僕はわりとそういうのが演技じゃなくて普通にできる人間なんだよね。作為的に社員に点数稼ぎしようというのじゃなくて、普通にできちゃうんだね。例えば今のトラックの店長とは、1カ月に3回くらい飲みに行って、酒を注ぎながら、僕はこう思うんだよ、と話し合うんですよ。
人の使い方はいろんな方法があると思いますが、従業員と社長の信頼関係というのは絶対に必要だと思います。それがうまくいかないのは、怠慢なんじゃないでしょうか。できる限りしてあげられる、余裕のある会社でありたいですね。
経済的な話では、社員に年金のことはよく言いました。年金は絶対あてにならないんだぞ、と。自主自立の気持ちを持ってやっていこうよ、とね。うちの平均年齢は30そこそこじゃないかな。だから、年金をもらえるまでまだまだあります。この時間をどういうふうに使うかが大切になってきます。ニュースで、最低でも老後に2000万円必要だから、貯金しないといけないというのがありましたよね。となると、そのための収入を得なければならない。これから先、水素自動車や電気自動車なんかが増えていって、自動車業界も変わっていって、整備が減っていくと思うんですよ。そうなったときに、どうやったら老後2000万円ためられるか。そうするためには、きちんと給料を上げてボーナスを渡す。それを、経営者が言った上でやってあげるというのが、一番いいと思います。有言実行ですね。
これから整備の需要が増えるということは絶対にないですから、それに対してどうしようというのを考えるのが経営者で、それを実行するのが社員です。そこには両者の信頼関係が絶対に必要なんです。これから車検制度がどうなるかわかりませんけど、何かひとつ違えばがたがたーっとなりますからね。
今取締役が全部で7人いますが、僕が退任するときにしっかりと、「会社というものはこういうものだ、1人で勝手にするな。最終的な決断は社長がやるが、みなで相談してやった方がいい考えができると思う」と、相当話をしましたね。それを彼らはみなわかってくれて、それぞれ頑張ってくれています。
うちは毎年事業計画というのを作るんですが、上から下に命令するのではないんです。
昨対は下回らないというルールで事業部長が目標数字を出してくれるんです。その資料を基に、年の初めに経営会議をやって、達成するためにどういうことをするかというアイデアを出し合って、何を実践していくか考える。それがうまくいっています。やっぱり事業部長と配下の人間が自分たちで考えて動かないと、いいことにはなりませんから。
僕が社長を辞めて6年、業績が落ちるということはなかったです。普通、創業者が辞めると落ちるもんなんですけどね。僕が落ちないように仕組みを作ったのもあるんですけど、よかったです。
業績というのは怖いんですよ。すべての結果ですから。落ちていくなら、その原因があるんです。そして、原因に気づいたときには遅いことがある。そこに注視して、そうなる前に手を打つというのが大事なわけで、そのために全員が打てば響くような社員であればいいんです。問題点は、社長ならすぐわかります。それを社員に共有して、改善案を実行できる会社かどうか。経営者が社員といろんな部分で共有できないと駄目だと思いますね。
社長だけができあがっても駄目です。社員を鼓舞して、自分ごととしてみなでまとまっていく必要があります。
今、大きな計画があるんです。新工場を作って、そちらで販売と整備とを1カ所でやろうと。車に関わることを全部できるようなね。
広い面積で、整備ができる準工業地域というのはあまりないんですが、長岡の北インターの東側で市が造成して産業流通地域として開発しているところが6500坪であって、そこの第2分譲に申し込んでます。そこを買えるかどうかはわからないですが、なんとかしたいなと思っています。そこに移って、新潟県で一番素晴らしい工場を作るというのを考えているんです。
今うちは4トン車までの整備しかできません。それを今度は運送屋さんが使うような大型トラックまでできるような工場にしようというのでね。トラックの展示場も4カ所あって、効率が悪い。拠点もみな離れてるんで、それを1カ所に集めると作業効率もよくなるし、社員もマルチになれる。僕は整備士しかやらない、営業しかやらないということも減って、互換性がきくでしょう。そうなると、社員の仕事量が今より1割2割、楽にこなせると思うんです。そういう仕組みができあがるのを、僕が生きているうちに見たいですね。
これからは、僕が歩んできた時代よりも激しい変化の時代に入っていくと思います。そんな中で社員たちにはたくましく生きていってほしいし、最後まで頑張ってほしい。となると、今まで僕がやってきたことだけではなく、プラスアルファが必要になるかもしれない。そういう意味では大変だと思いますけど、僕の築き上げてきた遺産を手に、頑張っていってほしいですね。
今の社員の中には、社会的に日本がどうとか国際的にどうとかいうのはあまり関心ない人もいます。基本的には楽して金がもらえて生活できればいいと思ってる。でもそれをかなえるには、いろんなことを知識として持っていないといけないと思うんですよね。
僕はテレビも映画も見ますけど、いろいろなニュースで政治経済、国際関係にすごく興味があって見てますね。ですから、わりと知っているつもりだし、どうなっていくかなって想像を続けてると、当たることがあるんです。そういうのは、山で培われたような気がするんだよな。山では失敗や何かを忘れたとかが命の危険につながります。装備を準備するのでも、ものすごく状況を想像したり調べたりして道具や衣服を選ぶんですよ。山は持っていける総重量が限られていますからね。
仕事でも、これを失敗するととんでもないなということがあるじゃないですか。例えばトラックでも相当借金しましたから。そのときは、どれくらいで返済しようということをきちんと計算して計画していました。人が見ると無鉄砲に見えるかもしれないけど、きちんと下調べしてやってるからできるんです。
お前は泥の橋でも渡る、と言われたこともありました。トラックを始めたとき、長岡中の自動車屋が「あ、これでナカノオートつぶれるな」と思いましたから。でも、僕は他の人がやらないことをやりたいし、石橋はたたいて渡る方なんですよ。充分な計画と準備があるから、ここぞというときに勝負の一手が打てるんです。
今ある自動車メーカーは、今後、トラックも含めておそらく3つくらいに集約すると思います。ユーザーの数、免許人口も変わっていきますから、うちの業界も相当変わると思いますよ。だからアンテナを伸ばして、情報収集していかないと。情報収集したことを考えて実行していくには、社員の成長がどうしても必要ですよね。そして、それがうまくいったら、社員に分配していく。それが大切です。
競争社会ですから、オンリーワン経営を貫いて、他社と比較する必要ないと思います。
自分たちだけの価値を探して磨いていく。ライバルは去年の自分たちです。少しずつでも確実に成長してね。うちは1人あたりの生産性がすごくいいんです。それはやっぱり、社員を大切にしてきたからですね。
僕は運がすごくいいんですよ。山でも、危ない目にあったけど間一髪逃れたということが何回かあるんです。商売でも素晴らしい人たちに巡り合えました。トラック市の白石会長をはじめ、トラック市の同志。そして何よりも社員のみんな。いい人と巡り合えたなと思うね。
3年前までトラック市の同志会の会長をやらせてもらって、2年間いい時間を過ごさせてもらいました。トラックというのは、終戦直後から整備をやっていたというような歴史のある会員さんが多いんです。そういう人たちの中で会長という名誉ある仕事をさせていただいたのは、ありがたかったですね。
仕事については、僕は山にのめりこんで遠回りしたのを取り返そうと頑張っただけでね。
そのことが、今日に至ったんだろうと思います。
苦しいことがいっぱいあったけど、やっぱり社長業というのは社員にはわからない面白さがありますよ。その会社においては最高責任者であり最高権力者じゃないですか。自分の思い定めた方法で、行くべき方向に向かって成果を出す。これは社長にしか味わえないことじゃないですか。それで優秀な数字が残せれば、将軍としての能力が高いと自分で思える。面白いですよ。
僕は今、人生で最後の大きな試練から這(は)い上がろうとしてるんです。大腿(だいたい)部軟部悪性腫瘍というガンなんですよ。
去年の秋ごろ、膝が腫れて長岡の町病院に行ったんです。取りあえず軟こうを塗って2週間くらいしてまた来いと言われて。で、2週間して行ったらすぐ総合病院に行けと言われて、レントゲンを撮ったら、日赤に行けと言われて。そこでCTを撮って今度は新潟大学病院行けと言われて、そこの先生にガンです、と言われました。
「今後の処置の仕方として、腫瘍を切除し、放射線治療をします」と聞かされました。
手術する10日くらい前まで15キロくらいほぼ毎日歩いてたんだから、もしかしたらもっと早くに検査していればうまくいったかもしれません。けど、これは過ぎたことですからね。
手術の経過が悪く、すごく痛くてね。それで、もういいよ切ってよと言って。その年の12月に左足を切断しました。
リハビリして歩けるようになってきた矢先、5月の連休過ぎに、脚のリンパに転移してることがわかって、今度はまたそれを切除して。それ終わってから次は45日間入院して放射線をやって、明後日また検査ですね。
正直、この年になってこんな病気もらうとは思ってなかった。経済的にはある程度余裕があって何でもできるはずなのに、何もできなくなってしまった。こんなふうに人生何が起きるかわからないんだから、悔いを残さないように生きなきゃならないんだよね。
脚を失って思ったのは、社長でバリバリ働いているときじゃなくてよかったな、ということ。これは本当に不幸中の幸いでしたね。後継者にも恵まれ、業績も良い状態で次の段階にいこうとしていますから。
まぁいい人生だったんじゃないですか。上見てもきりがないし、下見てもきりがないですからね。
感謝、感謝。
親父、あなたの子で本当によかった。
創業の雑誌「今日から明日へ」には、会長の人生の歩みが詰まっています。会長は、その生涯を通じてたくさんのことを私たちに教えようとしています。病いに蝕まれ、片足を失ってもなお、その姿によって、生きることを教えてくれています。ナカノオートの歴史を築き、未来につながる道を私たちに示してくれました。自信とやる気を与え、決断を促し、頑張れと背中を押してくれます。
ああ親とは、なんと愛に満ちていて、偉大なんだろう
会長と対話していく中で与えてもらった、子を思う親の深い愛を、これからもずっと、社員という家族に与えていけるよう、会長と私の想いを企業理念に込めました。
「明日のくらしをもっと幸せにできる家族を増やそう」
この企業理念を大切に、家族一人ひとりが人生の最高責任者として、自信を持って「自主自立」して、輝ける場を提供すること。
多く学び、得た知識を生かして、顧客の喜びを考働し続ける家族を増やすこと。
困難に負けず、人生最後の時に後悔なく「いい人生だった!」と思えるような、力強い生き方を応援すること。
これらを胸に、会長と私の想いを未来に結実させるため、この先の人生を歩んでいきます。
私たちならできる。
親父、私たちは、あなたの子なのだから。
※私たちは私たちに関わる全ての人を、ひとつの大きな家族と考えています。
※ナカノオートでは、行動を考働(考えて働く)としています。
代表取締役 中野澄
ご利用者様の許諾をいただいて掲載しております